良識と差別の間で ―新宿2丁目の看板書き換えの件について―

セクシュアリティ
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どうも、英司です。
いやはや暖かくなったかと思えば突然寒くなったりと、ずいぶん不安定な気候の最近ですが皆様いかがおすごしでしょうか。今日は、ここ数日二丁目界隈で話題のHIV予防啓発活動のポスターの件について。

 

二丁目交差点に掲載されたHIV予防啓発広告に対する新宿区の対応について

 

ゲイコミュニティ界隈で俄に論争を読んでいる案件でもありますので、経緯をご存知の方も多いでしょう。

 

ざっくり言うと、二丁目に掲載されたHIV予防啓発のためのイラストの目立つ位置に描かれた男性が上半身の洋服を脱いでおり、なおかつ下着が見えていることに対して、近隣住民からクレームが来たとのことで、イラストの修正を余儀なくされた、とのことです。

 

作者のムラタポさんが自身のブログで、非常に悔しい心中を綴っておりまして、こうした不本意な修正がご自身の作品に加えられることはイラストレーターとしては断腸の思いでしょうし、ご自身の作品や職業に誇りを持っているからこそ、こうした悔しい気持ちを禁じ得ないことがよく伝わってきて、本当に残念なことと思います。

 

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修正依頼をしてきた新宿区の対応に関して、ゲイ・コミュニティ内では様々な意見が交錯しています。

 

クレームを出してきた近隣住民というのが何人かということもわかりませんし、彼らが最初から修正を要求してきたのか、それとも看板の撤去を要求してきたのかも詳細は不明。こんな透明性が担保されていない状況では、到底納得感がを得られるはずもありません。また、クレームを言ってきた人に意識的、無意識的問わず同性愛者に対する差別的な意図が存在していたのも事実だと思います。

 

ただ、僕は今回の新宿区の対応を積極的な支持はしないものの、行政としてしっかり役割を果たしただけに過ぎず、特定の思想や立場を不公平に優遇もしくは差別的な取り扱いをした、とまでは言えないと思っています。

 

すべての物事は「文脈」の上に成立している

 

この件を差別と弾劾する意見の中に目立ったのは、「下着メーカーの広告などはもっと肌の露出の高い広告をたくさん打っているのに、これを『公序良俗』を理由に排除するのはおかしい」という意見でした。

 

確かに言っていることはごもっともです。
ただ、街で見かける下着メーカーの広告に関しては『下着というプロダクトをアピールする機能を担っている』という非言語的な合意が形成された文脈の上にこうした広告表現が存在しているため、公序良俗に反しているかどうかという判断基準が通常の文脈で広告表現を見た時よりもかなり緩和された状態で広告を目にしていることが予測されます。

 

そのため、下着メーカーの広告が上半身を脱いでいたり、肌の露出が高い女性が登場することに違和感を唱える人はほとんどおらず、それが公序良俗の面からクレームを受けるようなことはほとんどありません。

 

今回の2丁目交差点に掲載された広告に関しては、HIV予防啓発活動の一環という位置づけです。

 

 

一私企業の善意の広報活動の一環であるとは言え社会的なメッセージ性が高く、下着メーカーが自社の利潤のために出稿する広告が置かれた文脈と今回の広告が置かれた文脈はあまりにも違い、同一の視点で単純比較するのはナンセンスな案件ではないか、というのが僕の率直な感想です。

 

また、こうしたイラストはこれまでにも、ゲイバーのポスターや配布されているコンドームのパッケージなどには多く見られる作風でしたが、それらは物理的にも同性愛者にしか目に触れることがないため、これまで問題になったことはありませんでした。

 

ただ、今回の件に関しては、新宿二丁目内のかなり目立つ位置での出稿となりました。
新宿二丁目は確かに世界有数のゲイタウンですが、それはあの街の夜の顔であって、街の中に企業が入居するオフィスビルもあれば、近隣に学校もあります。

 

また、目と鼻の先の新宿御苑地区は古くからファミリー向けの高級マンションも多くあり、新宿2丁目がゲイのみが出入りする純粋な解放区とまでは言えず、同性愛者以外があの看板を目にする可能性も十分にありえます。

 

「自分たちは差別されている」という言葉を使うときは、非常に慎重になってしかるべきと僕は考えています。「差別」というのは絶対的にいけないこと、という認識は誰にでもありますし、「差別はやめろ!」という言葉は多くの議論をすっ飛ばして多くの人を黙らせてしまう性質を持っていると思います。なので、これは僕達にとって最終兵器だと思っています。

 

ただ、最近の行政の悪いクセも見られる

 

今回は公共性という立場からの新宿区の対応は妥当であったのではないか、という見解をしめしておきたいと思います。

 

ただ、今回の個別的な件とは別として、一般的に一私企業の企業活動に行政があれこれ口を出すこと自体は資本主義社会にあってはあまり好ましいことではないことは事実。

 

また、最近あった山梨県が主催した上野千鶴子の講演会を、彼女を嫌うグループが激しく抗議したため一旦中止が決定したと思ったら、今度は彼女を支持する県内のグループが抗議した結果、一転して当初の予定どおり講演会が開かれる、という一連の騒動に見られるように、行政が広く市民の意見を取り入れて合意を形成する『民主主義』と、必ずしも多数の市民の意見とは一致しない一部のロビーイングの声に敏感すぎるほどに反応する『クレーム主義』を勘違いしている事例は最近とても目立ちます。

 

上野千鶴子の例以外でも、最近印象に残っているのは福岡市が主催した「かわいい区」の話。女性蔑視を助長するという意見が来た途端、福岡市がかわいい区キャンペーンを中止するとかしないとかのゴタゴタ劇を演じましたが、実際のところかわいい区キャンペーンへのクレームは4件だったという、なんとも滑稽な事件もありました(ちなみに福岡市の人口は約150万人)。

 

行政も、賛成とか反対とか、差別かそうでないか、という一時的な二元論に終始せず、こうした社会や時代の文脈によって柔軟な判断ができる行政機関に成熟していけるといいな、と思いました。

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