ゲイが見た「美女と野獣」-これは至高の”現代劇”である

レジャー日和な日々が続いている最近ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。さて、ゴールデンウィークにかけて注目の映画が続々と公開されていますが、筆者も公開早々に見てきました。

 

『美女と野獣』の実写版!

 

ディズニー最高傑作と名高い同作アニメの実写化ということで、制作陣やキャストが感じていたプレッシャーは並大抵のものではなかったでしょう。

 

しかし、原作の世界観は大切にしつつも、映画で新たに加えられた設定や伏線も無駄がなく、大変素晴らしい作品でした。今回はゲイの筆者から見た、本作のレビューを行って行きたいと思います。

 

世界中から愛される主人公ベルのキャラクター

 

何と言ってもこの作品の魅力は、主人公ベルの自由闊達なキャラクター性でしょう。本作は1991年のアニメ化当時も、ディズニープリンセスが主人公の作品の中でもやや”異色”な作品という評がなされていたと聞きます。

 

それまでのディズニープリンセス系の映画のヒット作と言えば、「白雪姫」「眠れる森の美女」「シンデレラ」に代表されるような、裕福な貴族階級の主人公が悲劇に見舞われ、王子様が主人公を救うという筋書きが鉄板でした。

 

 

「美女と野獣」に関してはこれらのストーリーとは根本的に異なっています。筋書きとしては、困難に負けずに真実の愛を貫いたベルが、結果的に王や城の呪いを解くというもので、それまでのディズニーアニメの筋書きとは逆の展開です。

 

そして、主人公のベルは貴族ではなく庶民階級の出身です。舞台となっている中世のフランスの女性には珍しく文字が読め、文学作品に精通している教養豊かで好奇心旺盛な女性で、いつも自分の住む狭い街ではない広い世界を夢見ています。「か弱いお姫様」的なキャラクター設定ではありません。

 

一方で大変父親思いで心優しい一面もあり、こうしたベルのキャラクターはグッと視聴者の心を掴むのでしょう。このような特徴を持つベルの役に、フェミニスト的な主張をする女優として有名なエマ・ワトソン氏を起用したのは、偶然ではなかったのでしょう。

 

多人種が登場した本作は「ポリコレ的」なのか?

 

本作の見どころのひとつに、豪華絢爛な舞踏会のシーンがあります。しかしこの舞踏会のシーンが一部で物議を醸し出しました。

 

なぜなら、中世のフランスが舞台であるはずの本作に、多くの黒人俳優が登場するためです。確かに筆者も、黒人の俳優さんたちが、いかにも中世ヨーロッパの貴族的な格好で登場するシーンには、多少の違和感を覚えました。

 

また、ベルに一方的な好意を抱く粗暴な男ガストンの子分のル・フウがゲイという設定が加えられたこともあり、本作は「ポリコレ的だ」という批判が一部に上がったのです。

 

ポリコレとは、ポリティカルコレクトネスの略で、昨年2016年のアメリカ大統領選を読み解く上でも重要なキーワードになった概念です。直訳すると「政治的に正しい選択」ということで、多民族国家であり激しい格差社会でもあるアメリカ社会でこの言葉が使われる際は、「様々な人種や文化、経済階層、基本属性の人に配慮した政治的に正しく中立的な言葉遣いや表現をすること」と言った意味として捉えられます。

 

オバマ前大統領は、自身が初の有色人種の大統領であったという出自も相まって、社会的な公平さや平等さ、弱者・少数派への配慮を重んじる大統領で、非常にポリティカルコレクトネス的な大統領であったと評されています。

 

最初はこうした正義感の強いオバマ前大統領の政策や人柄は多くのアメリカ国民には歓迎され、2009年から2017年に渡り大統領職に就いていたわけですが、一方で「正しいこと」を常に意識するためには、時に自身の感情を理性で抑えなくてはならず、とても疲れることであるのも事実です。

 

その8年の間にアメリカ国民はそうした「ポリコレ疲れ」を起こしていたため、社会的にタブーとされる物事に対して率直な持論を展開するトランプ氏が、ポリコレ疲れを起こしていたアメリカ国民の心を掴んだという分析が方方でなされています。

 

話を映画に戻すと、本作もハリウッドがこうしたポリティカルコレクトネス的な配慮から配役を選んだのではないか、と、原作アニメのファンから批判が上がったという背景があります。

 

「ポリコレ」で片付けるべきではない、“現代的な”真のメッセージ

 

しかしこの物語の核は、見た目も恐ろしい野獣と街で一番美しいベルが次第に心を開き合い、互いに惹かれ合っていくストーリーにあります。

 

裕福だけど薄情な父に育てられ、孤独な幼少期を過ごしたために傲慢で人を愛することを知らずに育ってしまった野獣と、閉鎖的な田舎街の中では先進的な考えが敬遠され、「変わり者」と揶揄され疎外感を感じていたベルが互いの境遇を知るところから、徐々に心を開き合って行く過程は、本作の見どころです。

 

これは現代アメリカで少数者と呼ばれる人たちが置かれている境遇から感じる疎外感となんとなく重なるのではないでしょうか。

 

ベルは街の女性たちからはモテているガストンを毛嫌いしており、恐ろしい出で立ちの野獣と真実の愛を築いて行きます。よく言われるようにこの物語は、人を見た目だけで判断せず、より本質的な部分で心を通わせることの大切さや素晴らしさを描いています。

 

これは非常に現代のアメリカ社会を反映した作品なのではないでしょうか。
未だに黒人を中心とした有色人種や同性愛者等への根強い差別が残っているアメリカ社会は、「多様性のある社会」であると同時に、私たち日本人が想像している以上に「差別的な社会」であることも事実です。

 

こうした社会にあって「自分とは違った人と心を通わせること」は非常に大切なことであると同時に、非常に困難なことでもあります。このような現代のアメリカ社会が抱える問題を背景に考えると、この「美女と野獣」という作品は非常に”現代的”な映画と見ることができます。

 

美女と野獣が愛し合うこと、それは例えば黒人と白人が愛し合うこと、同性同士が愛し合うこと等、そこに「心の通った関係」が存在することが重要であり、そこで築かれた愛は、見た目、人種、基本属性をも超えるものだ。

 

今回の実写化にあたっては、こうしたメッセージ性が新たに持たされたのではないかと感じました。

 

そのため、黒人や同性愛者が登場したというのは、単なるハリウッド内に根強く漂うポリティカルコレクトネス的風潮とは関係なく、もともとの本作が持っていたメッセージ性により現代的な解釈を付け加えた結果としてなされた配役だったのではないかと思いました。

 

変わりつつあるディズニー映画

 

2014年に社会現象にもなった「アナと雪の女王」も、本作になんとなく作風が似ています。「アナと雪の女王」に関しては、王子様はいてもいなくても幸せになれる、というストーリーであり、「美女と野獣」よりも一歩踏み込んだ内容になっていたかと思います。

 

ディズニーと言えばアメリカを代表するエンタテインメントのひとつですが、そこから見えてくるアメリカ社会の「現代」を読み解くのも、またディズニー映画の楽しみ方のひとつかもしれません。