「多様性」の本質-決して美しいものではないその概念

どうも、英司です。もうすぐゴールデンウィークですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。今回のテーマは「多様性」について。

 

「多様性」って、本当にそんなにバラ色な概念なのか?

 

昨今、LGBT業界にとどまらず「多様性」というワードが様々なところで使われています。企業においても「ダイバーシティ」などと銘打って採用活動を有利に進めようとしたり、CSR活動でのイメージアップを図ろうとしたりしています。

 

私は当初(2010年くらいまで?)はこうした世の中の動きに対して概ね好意的なスタンスでしたが、最近はこうした概念を殊更強調する企業や団体を懐疑的な視点で見ています。

 

「多様性」-その優しく先進的な言葉のイメージとは裏腹の、違った一面の「多様性」についてを今回のテーマにしていきたいと思います。

 

 

「多様性」を突き詰めると…

 

「多様性」を推進しようとする人たちから一様に聞かれる「多様性」の定義とは…

 

様々な価値観を持った人たちが、それぞれの違いを理解し、認め合うこと

 

と言った内容となります。

 

これは非常に理想的な定義とは言えますが、他人の属性や振る舞いに対して不快に感じたり、そういった振る舞いを文化的に共有している特定の属性の人たち全体にまでその「不快感」の対象が広がってしまったりすることは、感情を持った人間として当たり前のことで、様々な啓発活動でこうした「感情」までも取り除くことは現実的には不可能なのではないか、と、私なんかは考えています。

 

そんな私が考える多様性の定義とは…

 

考えや価値観の違う人たちとは極力争いを避けるよう一定の距離を置き、互いの価値観に対してあれこれ干渉し合わないこと

 

と言った感じでしょうか。これが現実的に実現できそうな形に「修正」した多様性の概念なのではないかと考えています。

 

このように、私は「多様性」とは、極めてドライな概念だと考えています。

 

例えば、「同性愛者は気持ち悪い!」と、様々な人が聞いているところで表明するのは明らかな差別であり多様性を否定していることになるでしょう。しかし「同性愛者は気持ち悪いから、自分は関わらないようにしたい」と”思う”ことは差別とは思いませんし、むしろここでいう「多様性」を尊重した考えだと思います。

 

「多様性」を高らかに掲げる人たちと、そうした声に「うるさい、やめてくれ」と感じる人たちとの決定的な違いは、この「多様性」に関する定義の違いから発生しているものではないかと最近は感じています。

 

生存戦略としての多様性

 

最近、殊更企業の「ブランドイメージ向上」に利用されがちなこの多様性というワードですが、私はこの概念はもっと泥臭く、人間の本能的な概念だとも考えています。

 

というのも、「多様性」の源流は人類の生存戦略に根ざしたものであるからです。

 

少しデカイ話になりますが、人類が誕生した約600万年前は、「人類」は生物学的なひとつのカテゴリでしかありませんでした。

 

しかしそれから人類はアフリカからユーラシア大陸、アメリカ大陸に到達し、やがて道具を使うようになり、部族を形成し、「社会」を成立させるようになりました。

 

現在はこれが高度に発達し、「国家」という枠組みが生み出され、効率的な食糧生産技術や環境技術の向上によって「死」というものが昔よりもずっと縁遠いものになりましたが、これは極めて最近のこと。

 

人類の歴史から見れば、その「ほとんどの時期」が、人は自分の所属する小さな部族が世界の全てで、穀物を保存したり融通し合って生き延びたりすることもなく、原始的な道具を使って狩猟をするその日暮らしの生活をしてきました。

 

こうした人類の初期段階にあって「多様性」は極めて重要な概念になります。

 

例えば食習慣に話を限ると、近隣の部族とまったく同じ食文化を持っている場合、限られた食資源を一部の地域で奪い合うことになり、効率的な農業生産技術を持たなかった時代にあってはこれは非常に由々しき事態を招きます。

 

天候不良が少し続けば部族間で激しい争いが起き、たくさんの人が死ぬかもしれませんし、食糧不足が続けば当然、飢饉が起きて部族や地域住民全体が滅びることになります。

 

こうした事態を避けるために人類が本能的に開発した概念が「多様性」でした。

 

具体的には、近隣する部族とは敢えて価値観を少しズラすわけです。食生活を少し変え、奪い合いや飢饉のリスクを最小限化してきました。そうやって「お隣さんとは少しずつ違った社会」を築きながら拡大していくことで、地球全土に人類がその勢力を拡大させて行ったことこそが、人類のこんにちの繁栄になっています。

 

その後、目覚ましい速度で文明が発達し、人類は狩猟中心の不安定な食糧確保から農業による計画的で安定した食糧確保の方法を開発し、そうした「インフラ」が整ったことで広範囲に渡って同じ価値観を共有する部族・民族社会を成立させることに成功し、これがこんにちの「国家」という枠組みを可能にした、という見方ができます。

 

つまり「多様性」とは、もっと人間の本能に根ざした泥臭い概念であり、その生存戦略上極めて重要な概念だったと取ることができます。

 

あたかも最近流行の概念に見えますが、こうしたバックグラウンドを考えると、企業や団体がブランドイメージ向上のために引用してくるような性質の概念としては、個人的には少し違和感を抱く面があります。

 

「自分とは違った人とは価値観をズラすことで争わないようにすること」

 

これが多様性の本質であり、「違いを認め合う」というよりも、究極的には「争いを避けるために関係のない人たちとは干渉し合わない」という意味の方が、より多様性元来の意味に近いのかな、と考えています。

 

 

誤用される「多様性」

 

こうした背景を前提とすると、現在はこの「多様性」が誤用されている例が散見されます。

 

特に、「多様性」という言葉を後ろ盾に、自分とは違った考えを持つ人を攻撃する人や場面に対して私は特に強い違和感を覚えます。

 

「多様性とは違いを認め合うこと」とされている意味を何の疑いもなく信じていると、自分の意見に反論する人=他人を認めない人=多様性を認めない人、という思考パターンに陥り、反対意見や指摘をすべて「多様性を認めない差別主義者」などと弾劾して封印させる行為が、一時期はそれなりの有効性を持ってしまっていました。

 

こうした暴論は、本来の「多様性」が効果的に働いてきた場面から考えると、かなり誤った文脈で利用されているように思います。

 

「多様性」とは、自分とは意見を異にする人間を黙らせるためにぶん殴る武器ではなく、本来は同じ人類間での争いを避け、一人でも多くの人類が生き残るように開発された概念であるということ、今一度見直されても良いのではないかと考えました。