マッタリ時代の愛国心-「HINOMARU」騒動から考える

 

どうも、英司です。最近は日大が次々とやらかしたかと思えば米朝首脳会談があったり、サッカーワールドカップがそろそろ開幕したりと、話題に事欠かない状況ですが、ひとつ気になったニュースがあったので、今回はそちらをピックアップします。

 

ロックバンドRADWIMPSの「HINOMARU」騒動概要

 

ご存知の方も多いかと思いますが、ロックバンドのRADWIMPSが発表した「HINOMARU」という楽曲が、軍歌を連想させるということで批判を受け、楽曲の制作を担当した野田洋次郎さんが謝罪をした件について、SNSを中心に議論が白熱しています。

 

まずは問題となった「HINOMARU」の歌詞がこちらです。

 

確かに「軍歌」とも取れる内容と言われればそういう気もしますが、この歌詞と、その後のイザコザについては私としてもいろいろ思う所がありましたので、今回のエントリを書こうと思いました。

 

 

「HINOMARU」の歌詞を見た率直な感想と自分なりの考え

 

あまり人の表現や作品をあれこれ批評したくないのですが、この歌詞を最初に見た時、率直に言って「気持ち悪い」と感じたのが正直なところです。

 

軍歌的かどうかは置いておいたとして、いかにも昨今のネット界隈では絶賛されそうな言葉が意図的に散りばめられている印象を受け、言葉はキツイですが「安っぽさ」が見え隠れしており、言葉に対する意味の含蓄も浅いと感じます。

 

よくわからない古語風の言葉遣いもぎこちなく、「言葉」への敬意が欠けており、単純に楽曲としての完成度はそんなに高い作品ではないのでは?と感じました。しかし、これが実際にはネット界隈では絶賛され、それなりの売上につながったのですから、彼らの狙ったところは大当たりしたと言った感じでしょう。

 

勢いづく抗議の声と、その行動

 

現在、この曲を「軍歌的だ」として弾劾している人たちは、野田さんが謝罪した後も抗議を続けており、SNS上にてRADWIMPSのライブ会場前でこの曲の廃盤と2度と歌わないことの約束を求めるアクションの呼びかけが行われており、かなり勢いづいています。

 

ひとつの作品や表現、思想や主張に賛否両論の議論が巻き起こるのは、言論の自由が保証された社会の理想的な姿でもありますし、多いに歓迎されることでしょう。

 

しかしながら、明らかな放送禁止用語や、特定の属性の人を罵倒するような言葉(いわゆるヘイトスピーチ)が含まれていない楽曲にも関わらず、一部の人が「不快に感じた」という主観的な主張を大声で叫べば、気に食わないモノは抹消できるという例を作ってしまうことは、この「言論の自由が保証された社会」にとって、大きな脅威になると私は考えています

 

いくら気持ち悪くても、この曲は存在しなければならない

 

私がこの曲に感じた「気持ち悪さ」の正体は、前出で述べた「楽曲としての完成度の低さ」や「ネット界隈の言論の傾向をちゃんとリサーチして、炎上も想定した上で作った曲なんじゃないかという下心を勘ぐってしまった」ことだけではないと思います。

 

私は、封建主義や家父長制、滅私奉公、懐古主義的な考えに対して強い嫌悪感を抱く方で、割と一般的な人よりもこの傾向が強いほうだと思っています。こうした観点からも「気持ち悪さ」を感じたことは事実でしょう(なので、この曲を聞いて不愉快になったと怒り狂っている人たちの気持ちも、わからなくもないです)

 

しかし今、抗議の声によってこの歌を「許されない歌」にできてしまう社会になることを、私は絶対に望みません。

 

声の大きな人、力の強い人の主観的な主張が最優先される社会は「許されない歌」を指定した後、今度は意に反した書籍を焼き払う「梵書」に取り掛かり、表現・思想・芸術の統制と萎縮はエスカレートし続け、文化は衰退。

 

誰かの主観のみによって政治犯が次々に作り出され、市民にとって毎日が恐怖に支配された社会が誕生することは、政治システムや統治機構の設計に失敗した国々の近代史がすべて証明しています。

 

私は、ここまで先人と現代人を含めたひとりひとりの努力によって築かれた、自由に様々な議論ができるこの日本の社会がとても好きです。それに、この自由な日本の社会を、後を生きる人たちにもしっかりバトンタッチしていかなければならないとも思っています。

 

そこに、「誰かの主観だけを根拠にした言論統制」を成功させ、今述べたような恐怖に支配された社会へと続いてしまいそうな風穴を、自分たちの代で作ってしまうことは絶対に避けたいと考えています。

 

「たかだか楽曲ごときで何を大げさな」と言った感じもしますが、大きな戦争も、政治システムが狂い貧国に堕ちた国の惨状も、最初は本当に小さな「風穴」から悲劇は始まっているものなのです。

 

なので、この歌は、絶対に存在し続けなければならない歌なのです。
非常に皮肉なことですが、この封建的で懐古的な歌こそ、自由を守る砦になってしまっているのだと感じています。

 

愛国が「消費」されている最近の日本に感じる危機感

 

最近、外国人を呼んで日本の仕事現場を見学させ、外国人が日本を褒め称える番組や、日本にいる外国人にマイクを向け、日本の良いところを答えさせるような番組をよく見ますし、こうしたコンテンツがそれなりに支持されています。

 

私もSNSをやっていますが、日本って良いところ、という趣旨の発言をすれば非常に高い支持を得られますが、少しでも日本を批判したりすると、知らない所から「お前は自分の国を批判するのか」と、大量の矢が飛んできます。インターネット上はこの傾向が非常に顕著です。

 

最近、こうした傾向はけっこう危ないのではないかと考えるようになりました。それは別に、「愛国心は軍国主義に繋がるから…云々」という政治的な話ではありません。もっと実利的な次元での危険性を感じています。

 

マッタリした愛国心と、マッタリと衰退する社会

 

私は仕事の関係で、AIやIoT、ドローンと言った先端技術開発の現場の情報をよく見聞きします。

 

現在、ドローン分野で世界シェアトップを独走する中国のDJI社は、ドローンの製造と販売にとどまらず、天文学的な規模の飛行記録のデータ集積を行っており、そのデータを正確に分析する自前のAI技術、その分析結果をユーザビリティの向上に迅速に反映させるスキームなど…どれひとつ取っても完全に「近未来」の世界のようで、言葉を失ってしまいます。

 

そして、この分野に関しては後発となる日本が割って入るのはもう現実的ではないのは明らかで、もう、中国が「安かろう、悪かろう」から「安かろう、良かろう」になってきています。

 

この現象はドローンに限らず、スマホや一部のIoT家電では既にもっと進んでしまっており、かつて日本製品が世界を席巻していた時代は、過去のものになりました。

 

ここまでの話をしただけでも、突然感情的になって「でもそれはごく一例じゃん!やっぱり日本は今でも世界一で…」「でもやっぱり中国や韓国製品なんて絶対世界では認められるはずがない!」「お前はそんなに日本が嫌いなのか!」と怒り出す方、特にネットでは多いのですが、すごく残念なことにこれらの話はすべて事実であり、しかもこのような新興国と日本との「逆転現象」が始まっている分野は、年々増えつつあります。

 

だからと言ってこのままこの国が衰退していくことなど、私は決して望んでいません。日本はかつて、何度も国家存亡の危機に瀕した国でありながら、その都度、ひとりひとりの賢明な国民の努力と、柔軟でしなやかな意思決定によって幾度となく危機を克服してきた偉大な国です。

 

今も人口減社会という危機が近い将来に迫っており、ある種この国始まって以来の、指折りの「正念場」の時代に差し掛かっているかもしれません。

 

こうした時代背景を考えた時、どうしても昨今の愛国的な風潮というのが、前述のような差し迫った課題や現実から目を背けるものとして、ある種アヘンやモルヒネのような役割を担ってしまっているように感じています。

 

かつて、「愛国心」と言えば勇ましく逞しいモノ、という印象でしたが、最近の「愛国心」は、そういった勇ましさや逞しさとも無縁な、「マッタリ時代の愛国心」といった感じでしょうか。

 

私は個人的には、郷土愛を持つことはとても良いことだと思います。また、自分の国に対して過度に劣等感や自虐史観を持つことは、あまり健全なことでもないとも考えています。

 

しかしながら、ここ数年の風潮を見ていると、愛国心を堂々と謳えるようになったのと引き換えに、自分たちの国の政治・経済や科学技術を客観的に判断することから逃げ、向上心を忘れ、明治維新の開国時から日本経済の精神的支柱となってきた「追いつけ、そして追い越せ」の精神までもを失い、四方を鏡で仕切られた狭い部屋で自画自賛をしながらゆっくりと、マッタリと、衰退に向かっているような気がしてなりません。

 

こうした背景をうまく読み取って話題になった(と、私が邪推している)歌が、私が少し前からなんとなく感じ取っていた「マッタリとした危機感」の正体をよりクリアにしてくれました。

 

そして、友人や家族、会社の人からも「せっかち」と評される私は、やっぱりこういう「マッタリ」は肌に合わないな、と、強く感じる次第でした。

 

ともあれ、私だって祖国が衰退する姿など見たくありませんし、私たちが先人から与えてもらった自由で豊かな社会を、しっかり次の世代の人たちに引き継いでいかなければなりません。

 

過去を懐かしむのも良いですが、そろそろ現実と向き合い、再び工業製品や文化で世界を魅了する国を目指す底力がこの国にはあると、私は信じています。頑張っていきましょう。