20代に置いて来た6つのこと-30代からの幸せを考える

どうも、英司です。
夏も終わりに近づき、秋の足音が聞こえて来た最近ですがいかがお過ごしでしょうか。

最近は私も30代半ばに差し掛かり、学生時代の友人たちのほとんどは結婚をし家庭を築きました。既に子供がそれなりの年齢になっている友人も珍しくありません。

世の中で古くから「こういう生活を送れれば一応は一人前」という“フレーム”のようなものが、私のようなゲイには存在しません(ノンケの方でも結婚や出産、出世やマイホームの購入などといった人生のイベントの持つ価値が相対的に下がっているように見受けられるので、同性愛者だけの話でもなさそうですが)。

ですので、今後の人生のことや、主に自分にとっての幸福とは何なのか?ということを考える機会は増えてきたように思います。

20代を終えて約5年が経過し、「20代」という若者時代を徐々に客観的に捉えられるようになった今、自分の幸せのために敢えて20代の頃に置いてきたもの、というのを、少し振り返ってみたいと思い、今回エントリを書きました。

1、他人と比べること

人にとっての苦しみのほとんどは、実はこの「他人と比べること」から発生しているのではないかと思います。

勢いに任せて突っ走ることも多かった20代の頃は、本当に他人と比べてばかりいたと思います。もちろん、具体的な人やステータスと言った、わかりやすい目標を見つけられたおかげで頑張れたこと、達成できたこともあったかもしれません。

だけどこれには切りがない、ということに、あの頃はまだ気付いていなかったと思います。特に東京のような大都市に暮らしていると、自分よりも金持ちな人も、仕事ができる人も、ルックスが良い人も、山のように存在しています。

そんな中であれも手に入れたい、これも手に入れたいと際限なく言っていたら、それは向上心どころか心を病んでしまう原因になってしまうということを、あの頃はまだ理解していなかったと思います。

具体的な目標を持って頑張る、ということ自体は素晴らしいことなのですが、それ自体が多大なストレスの原因になるようなら本末転倒で、「足るを知る」という精神は、やはりどこかで顔を出さないと苦しくなるだけだということにも気付かされた時代でした。

2、 他人の評価を気にしすぎること

人から批判されたら傷ついたり、イライラしたり、逆に褒められたり称賛されたりすると、過剰な万能感や有能感に浸り…。とにかくこの手の失敗談は多かったなと思います。

結局どちらも良い結果は産まなかったように思います。
あの頃は、世の中には下記の3種類の人がいると認識していました。

①私のことが好きな人
②私のことが嫌いな人
③私に対して無関心な人

③がほとんどである、ということまでは自覚していました。そして、②の人とはいずれは仲良くなれる、なんてことも考えていたと思います。しかし今思えば、これもあまり正確ではなかったのかなと思います。今は下記のように考えるようになりました。

①私のことが好きな人
②私のことが嫌いな人
③私の言うことが好きな人
④私の言うことが嫌いな人
⑤私に対して無関心な人

人間関係や自分に対する他人からの評価というのは、もっと複雑なものだと今なら思います。世の中、一度嫌いになったり敵視したりすると、やること成すことすべて「アイツが言っていることだから悪いことに違いない」という前提から入り、あらを探すのに躍起になる人というのも一定数存在します。これは上記の②に該当する方でしょう。

そういった方に歩み寄ったり、耳を傾けたりするのは時間や労力の無駄としか言いようがありません。

しかし、新しく加わった③と④は非常に複雑な項目だと思っています。例えば、私のことが好きな人で、それが私の普段の言動を見て好きになってくれている人は①と③が共存している状況かと思います。

しかし、概ね私に良い印象を持っている人でも、あるシチュエーションでの私の言動は好きではないという人、つまり、①と④が共存している人というのもいるでしょう。

というか、①と③、④はすごく複雑に共存しているのが普通の状態だと思います。②のように、やること成すことすべて気に食わない、という人は一定数いても、①だけの人、つまり、やること成すことすべて肯定的に見てくれるという人はほぼ存在しません。

このように、人の評価というものは非常に複雑なものであるという前提に立つと、すべての人に好かれるために相手に合わせてばかりいるとどこかで矛盾が生じ、必ず自分自身が破綻してしまう、ということに気付きます。

自分にとっての「幸せ」を、人からの評価によって定義しているとこのような矛盾に苦しめられてしまうし、若い頃はそれで失敗したことがすごくたくさんあったようにも思い出されます。

3、青い鳥を探すこと

俗に言う「青い鳥症候群」、つまり「ここではないどこかに、願いをすべて叶えてくれる幸せの青い鳥が存在している」と信じることです。

2では「人からの評価は、とても複雑に構成されている」ということを書きましたが、これは「人からの評価」を「幸せ」にそのまま置き換えても通じることだと思います。

恵まれた環境の職場にいても、やはり1人や2人は癪に障るような人はいるでしょうし、時には得意でない仕事も頑張って遂行しないといけない場面もあるでしょう。充実したプライベートを送っているように見える人でも、時には友人や恋人の嫌な部分を目にしガッカリするようなこともあるでしょうし、些細な行き違いで関係が壊れてしまい、傷つくことだってあると思います。

若い頃はなんとなく、そういった苦悩が一切存在しないような場所がどこかにあるような気がしていて、仕事でもプライベートでも不満ばかりが目につき、それと比例して他人の羨ましいと思う部分ばかりに気を取られ、勝手に落ち込んだり嫉妬したりしていたように思います。

しかしそれは、非常に表層的な面ばかりを見ていたから思ってしまうことなのだと気付きました。SNSなどでも、友人や恋人との明るい面を積極的に発信していても、不満や失望などといったネガティブなことは極力発言しないように気をつけているという人はたくさんいます。

そういった人たちと出会い、親しくなって様々な事情を知るにつけ、本当に人にとっての幸福感や他人からの見え方というのはものすごく複雑で、一言で片付けられるものではないのだということを、理解しました。

4、給料を我慢料だと考えること

これは、年齢的にもある程度仕方ない面もあったかとは思います。
20代前半から中盤くらいの頃は、スッパリと「給料は我慢料」と割り切っていました。基本的に仕事はあまり好きではなく、少しでも楽して、少しでも多く給料をもらいたいなんて考えていたと思います。

出世やマネジメント的な役割を果たすことにもまったく興味がなく、あまり先のことも考えていなかったように思います。

しかし私の場合は、転職がその契機となりました。
今の会社に転職したのは27歳の時で(内1年半は別会社にいましたが)、私が担当するWEBマーケティングや広報を担う部署はそれまで存在しておらず、1人で作っていかないといけなくなりました。

当然、決められた仕事のやり方などもなく、1人なので何でもこなさないといけません。「我慢して決められた方法で仕事をしていればお給料が手に入る」という環境ではなくなったのです。

まだ若く、自分の仕事や考えに自信や確信もない中でも決断しないといけないことはたくさんありました。また、何かを「決断する」という作業にかかるストレスは、単純な作業を何時間も行うよりもストレスや緊張感が生じることだということも知りました。

最初は慣れない中で大変な場面もたくさんありましたが、社長や役員と言った人たちが普段何をしているか、というのを見る場面がたくさんあったのも良い経験でした。当然のことですが、会社というのはお金を稼ぐ組織です。お金を稼ぐためには何かしらの「付加価値」を世の中に提供する組織でないといけません。

そう考えて行くと、自分のもらっているお給料というのは、私が働いている「時間」や「作業」に支払われているのではなく、私が生産した「付加価値」に対して支払われている、という考えに行き着きます。

こう聞くと、働くことに対して敢えてしんどくなるような考え方をしているかのように聞こえるかもしれませんが、私の場合、実際このように考えてから働くことが楽しく感じるようになりました。

「給料は我慢料」と考えていた頃は、今度発生する「作業」のことで頭がいっぱいで、しかもその作業というのも、誰かが「発生させている」ものであり、自分はそれを受動的にこなしている、という感覚に近かったと思います。

しかし、「付加価値を生み出す」という前提に立つと、自分からどんどんとやるべきことが見つかるようになります。営業のような仕事であれば、常に定量的に自分の会社の売上に対する貢献具合を知ることができますが、私のやっているような仕事の場合、そこの部分も自分から調べに行かないとどうにもなりません。

WEBを使った集客の仕事であれば、一般的にはコンバージョン(申し込み完了)がゴールとなります。一応は定量的な効果測定はできますが、それだけでは自分の作り出している「付加価値」がどれくらいのものか、ということはわかりません。

付加価値に注目していれば、私が担当した経路で申し込みを完了した人のその後の成約率、他の経路に比べてどういった属性・特徴の人が多いか?、逆に質の低いコンバージョンが増え、現場はありがた迷惑な状態になっていないか?といったことなどを自然に考えるようになり、それを知るためのヒントになりそうな定量的なデータを社内のあちこちから引っ張り出して来て組み合わせて仮説を立てたり、関係部署への積極的なヒアリングを行ったりと、次から次へとやるべきことは増えて行きます。

しかしこうした作業の1つひとつは自分がすべきことだと自覚し、自分から言い出したことばかりなので、大きな苦になるようなことはありません。

気付けば「給料は我慢料」と考えていた時代よりも、恐らく生き生きした日々を送れていると思っています。

5、「自分への自信のなさ」を「謙虚さ」とすり替えること

生まれつき楽天的な人と、生まれつき悲観的な人がいるとすると、私は恐らく後者だと自認しています。現在はそれなりの年月を生きてきたので、自身のこれまで経験した成功や失敗を元に物事を考え、多少なりとも自信を持って行動できることも増えては来ましたが、もともとは自分への自信はそんなにない方だったと思います。

しかし、昔は自分の考えや行動に自信を持てないことを、一種の「謙虚さ」と混同させていたフシはあります。

謙虚さが美徳とされる日本において、謙虚であることは非常に重要なこととされています。しかし「謙虚な振る舞い」の本質というのは、「十分に知識や経験があって自分なりにも自信があることであっても、まだまだ違った視点もあるという前提に立ち、柔軟に他人の意見に耳を傾けること」ということであり、自信を持っているからこそ振る舞える態度、それが「謙虚さ」であるということを知りました。

だからと言って自分に自信がないことが悪いこと、という考えもなくなりました。経験から得られた知恵(≠知識)に裏付けられた自信というものに勝るものはありません。そうしたモノをすっ飛ばして無理に自信を持とうと思っても、それは空虚なものになってしまいます。

自信がなければ、ゆっくりと経験を積んで知恵をつけながら醸成していけば良いものだと思います。

6、「自分はまだ本気を出していない」と言う言い訳

物事が思ったような結果にならなかった時、自分よりスゴイ人に出会ったときなどに、本当によく「自分はまだ本気を出していない」と心の中で唱えていたものです。

そもそも、1でも書いたように、他人と比べてばかりいたから自分よりもスゴイ人に出会ったときにそう考えてしまったのでしょうね。

自分はまだ本気を出していない=自分は本気を出せばもっとスゴイことができる=自分は本当は何かスゴイことができる人間なんだ

こんな風な思いがどこかに漠然とあったのかもしれません。同時に、では自分は何に対して本気を出せば良いのか、「何かスゴイこと」って具体的には何なのか、それがまったくわからず、自分に対して強い苛立ちを覚えていたようにも思います。

これは、3で書いた「青い鳥症候群」とも繋がりますね。世の中、スゴイことがある人間ばかりではないし、スゴイことがある人間でも、すごくダメなところがあるかもしれない。大事なのは、物事を取り組む時に、後悔が残らないように「本気で望む」ということなのだと思います。

「俺は本気を出していないから」と言って保険をかけるより、「本気でやった。だから後悔はない!」そう言える人の方がずっとカッコイイということに気付きました。

何より、本人だってそうやって言える挑戦の連続なら、すごく楽しいと思います。本気を出すことはカッコ悪いことではないし、むしろ本気を出して生きていれば、自分よりスゴイ人とかを見ても羨ましいとか、妬ましいとか、そんなことは思わなくなります。というか、そんなことを気にかけているヒマがありません(笑)

今持っていないものでなく、今持っているものを起点に考える

この6つのことをまとめると、今持っていないものでなく、今持っているものを最大限に生かすことに意識を集中させる、ということに集約されていくかと思います。

他人と比べて自分の劣っていることばかりに目が行き、自分はアレも持っていない、コレも持っていない、だから手にいれないといけない…。

こんなことを繰り返して苦しくなって、気付けば「今自分が持っているもの」に無頓着になり、感謝の気持ちも忘れ、下手をすればそれを失う。そんな失敗も20代の頃はたくさんしてきたと思います。

もちろん、欲しいものを手に入れるために努力する、ということ自体は大変素晴らしいことで、それによって成長することだってあるでしょうし、今の私だって、そういった精神は忘れていません。

ただ、大事なのは「すべてを手に入れようと考えないこと」だと思います。
自分より優れていると思っている人であっても、見えないだけでダメな部分もあるかもしれないし、自分より幸せそうな人も、実は人には言えない悩みを抱えているかもしれない。あるいは、自分が誰かにとってそのように見えているかもしれない…。

世の中に絶対の幸せも、絶対の不幸も、絶対の好きも、絶対の嫌いも存在しない。そういう原則を意識すると、「あれは欲しいけど、これは諦めよう」という判断ができるようになり、さらにその判断は徐々に適正なものになって来ると思います。

そんなわけで、今回はいつもの社会的なネタを離れ、自信の若者時代を振り返る内容でした。長い記事で、しかも個人的な自分語りも多い内容なのに、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。