自称被害者の暴君たち

社会
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どうも!英司です。最近は少し仕事も忙しい日が続き、なんだか一週間が恐ろしく早いです…。

 

本日のエントリについての注意

 

僕を人権派の心優しい青年だと思ってくれている方がいらっしゃるとしたら、ありがとうございます。(そんな人いないか・笑)
ただ、そう思ってくださっている方には、非常に不愉快な内容になる可能性が高いです。一部、品位に欠くような発言もあるかもしれません。

 

いつもこのブログでは、好き勝手書いているように見えて実はあらゆる言葉を駆使し、ものすごく言葉を選んで配慮を加えて書いてきたつもりです。

 

だけど、今日はそういった心配りはできそうにありませんので、あらかじめご了承ください。

 

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自称被害者の暴君たち ―黒子のバスケ事件 渡辺博史被告の公判をうけて―

 

この脅迫事件は巷を賑わせたので、あえて詳細な説明はいらないでしょう。
そんなわけで詳細をご参照の方はこちらから→黒子のバスケ脅迫事件(Wikipedia)

 

この事件、警察のサイバー捜査班がビッグデータをうまく駆使して犯人逮捕につなげた事件としても注目を浴びました。
被害者である藤巻忠俊さんへの深刻な脅迫行為、ストーキング行為などは常軌を逸脱しており、本当にお気の毒であるとともに、この犯人の渡辺という男がしでかしたことは、到底許されることではありません。

 

本日、その渡辺被告の初公判があったようです。公判終了後、傍聴していたジャーナリストの江川紹子さんのツイッターで、公判の一部を垣間見ることができました。公判で渡辺被告が発言した内容の一部が下記だそうです。

 

 

この一連の文章が公開され、さっそくいろいろな反応があったようです。その多くは、彼は社会の被害者だとか、こういう人を産んだ社会が悪い、といった論調のものが多かった印象です。

 

だけど、僕がこの発言を見て率直に思った感想、それは…

 

「甘ったれるのもいい加減にしろ!」

 

この一言のみです。

 

意地悪を言うつもりもないですが、彼の発言の裏を返せば、人生を楽しんでいる自分以外の人たちはみんな何の努力もしていなくて、自分以外の人はみんな生まれたその瞬間から何不自由がなく、最初から自立していて、この世の中で自分だけが惨めでかわいそうな被害者だから、幸せそうな人たちの生活や人生を崩壊させたっていい、ということを言いたいのでしょうか。

 

様々起きる事件の中には、犯人にも同情の余地がある事件も時々ありますが、この事件に関してはその限りではないと僕は思います。

 

行き過ぎた被害者意識が、最も人を凶暴にさせる、という典型例のような事件です。36歳にもなった大の大人が、小学校のときに遭ったイジメだの、親に優しくしてもらえなかっただの、先生が思ったように動いてくれなかっただのと…。

 

本気で言っているのでしょうか。また、こうした謎の被害者意識、妄想話に近いようなことにまともに耳を傾け、同情的になる世論も僕としては少し理解ができません。

 

幼少期の頃なんて、誰だってイジメの一つや二つくらい経験するもの。親や先生が思った通りに動いてくれないことだってよくあることですよ(親だって先生だって自分と違う人間、他人なんですから何もかも思った通りに行動してくれるわけがありません)。

 

嫌なことは何も小さな頃のことだけではなく、みんな日常的にたくさんのストレスを抱えつつも、折り合いをつけて生きているもの。それでもみんな、努力して、自立して、幸せになるために毎日悩んだり考えたり笑ったりしながら自分の人生を自分の足でしっかり歩いて生きているんです。

 

幸せそうな生活をしている人、この人の言う勝ち組(そもそも人生を勝負なんかで二分しようとする発想があまりに幼稚で未熟です)の人たちが、自分の見えないところで努力しているかもしれない、とか、その人はその人でいろんなプレッシャーやストレスを抱え、その人なりの悩み事と闘いながらも、優雅な振る舞いをしているかもしれない、という想像がたった1ミリすら浮かんで来ないのは、あまりにも自分中心的すぎる幼稚でわがままな発想だと思います。

 

この渡辺被告は結局のところ、自分がこうなったのは親のせい、先生のせい、自分以外の幸せな生活を送ってるやつのせい、社会のせい、ってことが言いたいんでしょう。

 

しかし、敢えて極論的で過激なことをいいます。

 

彼が、彼の言う負け組になったのは、彼のご両親のせいでも、先生のせいでも、社会のせいでもありません。
すべての人に認められた幸福を追求する権利と、その実現のために努力をする権利を、自ら放棄する選択をした彼自身にすべての責任があると僕は考えます。

 

確かに、よくよく聞けばいろいろな事情はあるかもしれません。それに、人によって心の敏感度は違って、とても傷つきやすい人だったのかもしれません。

 

ただ、現実的な話、彼は中世ヨーロッパの奴隷だったわけじゃないでしょう。いや、中世の奴隷たちだって、いつかその鎖が切れる日を夢見て、心の中で自らの幸福を願う権利だけはあったんですから。

 

確かに子どもは親を選べませんし、豊かな日本とはいえども、生まれ持ってしまったさまざまな格差があるのは事実でしょう。

 

ただ、どんな出自、どんな家に生まれて来ようとも、希望を持つ権利だけは全員に平等に与えられているはずです(しかも聞いている限り、渡辺被告の家庭は彼が言うほどひどい環境でもないようで、ごくごく一般的な家庭のように思えます)。

 

じゃあ、希望って具体的には何でしょう?「今よりよくなりたい」って思うことだったり、「今日より明日、1か月後より1年後、1年後より3年後…今より未来が、今よりも少しだけでも幸せになっているかもしれない」と思える状態のことではないでしょうか。

 

これだけ複雑でストレスフルな社会だけど、みんな暴動も起こさず、気が狂うこともなく平穏な社会秩序が保たれているのは、大小の差はあれこの「希望」を持っているからで、「希望」を持っているから多少の嫌なことだってやり過ごすことができて、平穏に暮らすことができるんです。希望なんて言うけど、別に大層なことでなくてもいいと思います。そりゃ金持ちになりたいとか、社長になりたい人は多いにそれを目指せば良い。素晴らしいことです。でも、お金を貯めて車を買うとか、次の長期休みは海外旅行に行くとか、次の週末は美味しい料理とお酒を食べに行くとか…それだって立派な希望だと思いますよ。

 

その希望を持って生きていくかどうかの選択肢は、他でもない、自分自身にしか選ぶ権利は与えられていない。親や先生、いじめっ子、社会のせいにするのはおかしい。おかしすぎる。

 

自分から人生を放棄した人が犯罪者になった途端、歪んだ承認欲求と劣等感から発せられた、ほとんど意味を成さない戯言を吐き、ただただ今の自分の状況は自分自身の選択によってもたらされたものであることから逃げるための口実のような甘ったれた言い訳を並べ続けている。僕にはそう聞こえました。

 

ここで犯人を擁護するような言論を発表した方が、リベラル系知識人っぽくてカッコイイかもしれません。

 

ただ、僕はこうした根拠なき被害者意識、「被害者」を自称すればすぐに世論の同情を得、下手をすれば減刑や無罪放免になるのはおかしい、ということを敢えて表明しておきたかったのです。これは、精神疾患なども同じで、最近は精神疾患であることが、犯罪者の免罪符に使われすぎている。

 

さまざまな事件があるけど、計画的に何日も前に凶器を買って、指紋が残らないよう綿密な準備をして人を殺して、それでいて「精神疾患患者だから、正常な判断能力がなかった」なんて言い訳が公然とまかり通ってしまう。

 

そんなことを認めてしまうと、「被害者遺族が大事な家族を失ったショックから精神に異常を来し、犯人を殺しにいきました。」という話も無罪にしましょう、というようなことを理論上認めざるをえなくなってしまう。そんなことを認めたら世の中がめちゃくちゃなことになります。

 

最近、こうした「自称被害者」による好き勝手な犯罪行為がとても目立っていることが大変気がかりです。

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