悪気なきアウティングの恐怖―成宮寛貴さんの引退報道から見えること

セクシュアリティ
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すっかり年末感が出てきましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。筆者はいよいよ忘年会シーズンに突入し、仕事と飲みで忙しくなって来ました。

 

成宮寛貴さん引退報道に関して感じたこと

 

ここ最近、業界を賑わせている話題として成宮寛貴さんの引退報道がありました。各種報道によると、薬物を使用している疑いがあるということや、「セクシュアリティに関すること」を、信頼を置いていた知人にバラされたことにより、自身の名前に傷が付き、それによって今後の芸能界での活動を断念した、ということだそうです。

 

この件に関しては、TwitterやブログなどでLGBT当事者、非当事者問わず様々な意見が見られました。

 

「信頼を置いていた友人に裏切られたショックが大きすぎたのでは?」
「薬物使用の疑惑を、セクシュアリティを引き合いに出すことですり替えて逃げようとしているのでは?」等と言った意見が目立ちました。

 

そうこうしているうちにマスコミ各社の報道は加熱し、次第に成宮さんのセクシュアリティに焦点を当てた報道(その多くは成宮さんが男性同性愛者であると決めつけ、それを面白おかしく騒ぎ立てるもの)が目立つようになって行きました。

 

芸能界と薬物という話題は昔からよくあるテーマのため、それを騒ぎ立てるよりも、成宮さん本人が発言した「セクシュアリティに関すること」というトピックの方がネタにしやすかった、というマスコミ各社の判断も働いたのでしょう。

 

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筆者は率直に言ってこれらの報道を見ていて良い気分にはなりませんでしたので、極力これらの報道を意識的に見ない、気にしないというスタンスを取っていましたが、少し時間が経過し、筆者が覚えた不快感について少し考えてみました。結局のところ、薬物使用とセクシュアリティが同列に扱われることへ不快感を覚えたということなのではないかという結論に達しました。

 

もちろん、薬物使用疑惑が事実であれば、それは然るべき処罰を受けるべきことであり、法を犯している限り許されることではありません。

 

しかしながら、セクシュアリティが人と違うということは、法を犯していることでもなければそれは弾劾されるべきことでもありません。このことに関しては断言しておく必要があります。

 

「カミングアウトは正しい行動」という言説が必ずしも正しくない

 

一方で、成宮さんが「セクシュアリティに関すること」を流布されたことを受け、主にLGBT非当事者を中心に「ゲイであることなんて自分は気にしないし、今時隠すようなことでもないじゃん」と言う声も方方で聞かれました。

 

こうした主張については当事者として半分は嬉しくも思いますが、半分は怖くもあるものだと感じました。

 

今回、成宮さんが引退に至るきっかけのひとつとなった「セクシュアリティに関すること」について、最も重要な点は「社会に対して秘匿にしておきたかったことを流布された」という点であり、それは昨今LGBTに関する理解や認識が進んで来ていることとは無関係な問題で、これらの議論を混同させてはいけないということに留意する必要があります。

 

そうでないと、LGBTに関する理解が進んでいる環境下においてはアウティング(本人の意志に関係なくセクシュアリティを流布されること)が許容されるというロジックが成立してしまいます。

 

筆者もこれと同じような経験をし、困った経験があります。
以前、筆者が勤めていたWEB媒体社においては、筆者も度々にわたりアウティングを経験しました。

 

当該の会社で扱っている媒体の中にはLGBTに関する記事もあり、また、若いメンバーも多かったことも手伝い、会社としては比較的LGBT、殊に同性愛に関しては理解のある職場であったと認識しています。

 

しかしながら、会社という場所に自身のセクシュアリティを持ち込みたいかどうかはまた別次元の話であり、筆者としては特段業務の遂行能力に無関係な自身のセクシュアリティを会社や仕事の場面に持ち込みたくないというスタンスを取っておりました。

 

ところが、面接の段階で私に関して当該の会社がいろいろと調べていたところ、学生時代に寄稿したLGBTに関する記事などを見つけたようで、面接の段階ではすでに筆者が同性愛者であることが認識されている状態だったと聞きます。

 

理解のある職場であったが故に、私の意志とは関係なく筆者が同性愛者であることは入社前よりチームのメンバーなどに知れ渡っていました。筆者としては、これは完全なる誤算ではありましたが、「せっかく理解を示してくれているのだから…」と、変なサービス精神を働かせてしまい、「陽気で明るいゲイ」を演じていた部分があります。

 

その後も、私が信頼を起き、直接カミングアウトをしたわけでもない社内の人にセクシュアリティのことを聞かれ、面白おかしく様々な質問をされるなど、セクシュアリティという繊細な領域の問題を土足で踏み荒らした挙句、「ウチはゲイフレンドリーな職場だし、自分はそういうのに差別的な人間じゃないから大丈夫」と、一方的に私の存在を「許可する」人が後を絶たちませんでした。

 

こうしたことにいろいろ思うことはありましたが、前出のように「せっかく理解を示してくれているのだから…」と自分に言い聞かせ、今思えば本来の自分とは違った、細かいことは気にしない陽気なキャラクターを演じていたと思います。これが実は非常に大きなストレスにもなっていました。

 

「カミングアウトをして、それを拒否する方が間違っているのだから堂々としていれば良い」と言う声も確かにあります。それは完全に正しく、反論のしようがありません。また、「カミングアウトはLGBTの可視化や理解促進に効果的だから」という理由から、これを推奨する向きもあります。

 

しかしながら、周囲の理解度や社会的意義と、当人が周囲にそれを公言して生活したいかどうかは基本的には無関係であり、どんな時代背景、社会的価値観であれ「隠しておきたい」という気持ちもまた、尊重されるべきことだと筆者は考えます。

 

アウティングはいかなる理由があってもしてはいけないこと

 

こうした問題から見えてくるのは、昨今LGBTに関する話題が急激に増え、一見理解が進んだように見えることから、筆者が体験したような「悪気なきアウティング」が方方で発生する可能性がある(もしくは既に発生している)のではないか、ということです。

 

「生まれ持った基本属性を引き合いに出して差別をするのはいけないこと」という主張に反対したり、異議を唱えたりする人は恐らくいないでしょう。

 

しかしながら、腹の底では「同性愛者って気持ち悪いな」とか、「近寄りたくないな」と思うことは自由であり、それを行動に移したら差別となりますが、腹の底でそう思うこと自体は、特段差別には当たらないと筆者は考えています。また、こうした「生理現象」そのものはどれだけ時代が進んでも決して無くなるものではないとも思います。

 

「カミングアウト」の社会的な正しさには一理あると思いますが、社会的な正しさやLGBTに対する理解の浸透度とは関係なく、周囲との不必要な摩擦を避けたいという理由からそれを秘匿にしておきたい人も一定数いることは紛れもない事実であり、どんなシチュエーションであっても、「アウティング」は決して良い結果を生むことはありません。

 

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